ウィルダネス[wilderness]

「荒野」「原生自然」と訳されることが多い。定義の例として、全米アウトドア協会による「公道を含まない」10万エイカー以上のエリアというものや、国立原生自然保全制度による「風景に人や人工物が介入せず、大地と生命のコミュニティが人によって拘束されていない地域」というものがあるが、環境文学/エコクリティシズムの批評的文脈においては、ウィルダネスは必ずしも物理的な空間のみを指すわけではなく「心的な規準(the mental criteria)」に基づくとする定義を参照すべきである(Nash 4)。ある空間の人工性の有無を判断するのが人間である以上、「ウィルダネス」は人間の内面が投影された社会的・文化的な概念空間を指し示すことになるからだ。
 ウィルダネスの構築性については、E・バーク(Edmund Burke)『崇高と美の観念の起源』(1757年)を補助線とすることでより良く理解される。バークは崇高(sublime)の源として「驚愕」「恐怖」「曖昧さ」(62)を挙げているが、このような感情を喚起する原生自然がウィルダネスの特徴である。その意味で、W・ワーズワス(William Wordsworth)の“Tintern Abbey”(1798年)も、一面では幼年期のパストラルな自然への憧憬を描きながら、他面では荒れ果てた風景に崇高を認めているという点で、ウィルダネスをめぐる問題系を意識して描かれた詩であると言える。
 19世紀アメリカにおけるウィルダネスは、西部開拓に伴う「フロンティア」の概念と共鳴しながら、開拓され文明化されるべき過酷な物理的環境として立ち現れた。過酷な自然を「楽園」に変えようとする「荒野への使命」という歴史の影に、森林伐採などの環境破壊や、先住民の駆逐といった暴力の歴史があった。国土拡張と商業主義が手を結ぶ動向に対して、アメリカン・ルネサンスの作家たちは様々な形で文学的な反動を示した。R・W・エマソン(Ralph Waldo Emerson)はNature(1836年)や“American Scholar”(1837年)の中で、ヨーロッパが有する伝統的な文化の代わりに、新世界アメリカには広大なウィルダネスが存在し、それこそが旧世界ヨーロッパとは一線を画す独自の文学素材であると主張した。P・ミラー(Perry Miller)も述べるように、自然国家アメリカは、「原初の汚れのない、ロマンティックな自然の美徳との同一化」を試みた(338)。
 19世紀のアメリカ作家H・D・ソロー(Henry David Thoreau)は『メインの森』(1864年)の第一話“Ktaadn”の中で、過酷で無関心なウィルダネスに対峙して「岩、木々、頬に吹く風!確かな大地!生身の世界!コモンセンス!触れよ!触れよ!私たちは誰なのだ?どこにいるのだ?」(Maine 71)と書いている。ここでソローはウィルダネスを「自然の美徳と同一化」しえない他者として描いている。ソローのエッセイ「ウォーキング」(1862年)の「野生のなかにこそ世界が保たれる」という一節がウィルダネスを考える上でしばしば参照される(Excursion 202)。しかしこの一節で留意しなければならないのは、ソローはウィルダネスではなく「野生(wildness)」という単語を用いている点だ。M・ルイス(Michael Lewis)は、ウィルダネスとワイルドネスの違いを、人間の尺度から見た大きさに依存すると述べている。ワイルドネスが身近な自然の摂理を示す一方、ウィルダネスは「人間の尺度を基準として規模が大きいもの」とされる(6)。たしかに人間にとって驚くほどの「大きさ」は、崇高性と結びつく尺度であるため、ウィルダネスの定義に加えてもいいかもしれない。しかし、L・ビュエル(Lawrence Buell)が述べるように、ソローは「家の近くで発見した野生の痕跡を敬うこと、すなわち過度な文明化への対策」(191)としてウィルダネスを捉えていた。つまり、ワイルドネスがある種の普遍性を有する自然の摂理である一方、ウィルダネスは、物理的な指示内容をもちながら、同時にその判断基準が歴史的、文化的な諸条件に大きく依存する社会的構築物であると理解するのが適切であるように思われる。
 また、ソロー作品において、ウィルダネスの発見が環境保全の視座の導入と同時並行であるのも注目すべき点である。ウィルダネスと環境保全という構図を引き継いだのが、J・ミューア(John Muir, 1838-1914)と、A・レオポルド(Aldo Leopold, 1887-1948)である。 ミューアはシエラ・ネヴァダ山脈を踏破する本格派のアウトドア作家であり、ウィルダネス保護運動に尽力した。彼は観念としてのウィルダネスを再度、物理的空間に引き戻すことで、保全すべき自然空間の存在を示した。レオポルドも、ウィルダネスを保存することの必要性を訴え、その思想は「大地の倫理(land ethic)」として知られる。E・アビー(Edward Abbey)もウィルダネスに魅了された作家の一人であり、ウィルダネスを「失われたものであり、現存するものでもある。遠くにあり、同時に親密なもの」(166-67)と書く。ウィルダネスは撞着語法的なダイナミクスを持つものであるのだ。
 G・ガラード(Greg Garrard)が指摘するように、ウィルダネスはイデオロギー化し、政治化するものであり、必ずしも文明と対立する概念ではない。ウィルダネスは物理的で人間存在とは相容れない過酷な自然であると同時に、人間の想像力に不可欠な観念的な領域である。この多義性こそがウィルダネスのきわめて重要な特徴である。

(山本洋平)

 

参考文献

伊藤詔子「ウィルダネス」文学・環境学会編『たのしく読めるネイチャーライティング』(ミネルヴァ書房、2000)244.
上岡克己「ウィルダネス」『ユリイカ』(青土社、1996)227-28.
エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』中野好之訳(みすず書房、1999[原著:1757])
ペリー・ミラー『ウィルダネスへの使命』向井照彦訳(英宝社、2002[原著:1956])
Abbey, Edward. Desert Solitaire: A Season in the Wilderness. New York: Simon & Schuster, 1970.(エドワード・アビー『砂の楽園』越智道雄訳[東京書籍、1993])
Garrard, Greg. Ecocriticism. Abingdon: Routledge, 2004.
Lewis, Michael L. American Wilderness: A New History. Oxford: Oxford UP, 2007.
Nash, Roderick. Wilderness and the American Mind. New Haven: Yale UP, 1967.
Thoreau, Henry D. The Maine Woods. Ed. Joseph J. Moldenhauer. Princeton: Princeton UP, 1973.(ヘンリー・D・ソロー『メインの森』小野和人訳[講談社、1994])
---. Excursion. Ed. Joseph J. Moldenhauer. Princeton: Princeton UP, 2007.(ヘンリー・D・ソロー『ウォーキング』大西直樹訳[春風社、2005])


2014年12月10日公開

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